ウィーン写本と西ローマ帝国皇女アニキア・ユリアナ
アロマテラピー検定の歴史がところどころ謎だったので、時間がある時に検証していっているんですが、予想以上に事実じゃないことが多いですね。歴史をもとにしたファンタジーみたい。うーん、ほんとに、大丈夫なんでしょうか(道義的に)。大学のゼミの先生に見せたら、すごい顔するだろうなぁ・・・
今日は、ディオスコリデスの『薬物誌(マテリア・メディカ)』の有名な写本「ウィーン写本」について。
『薬物誌(マテリア・メディカ)』こと『De Materia Medica libriquinque(逐語訳:「医薬の材料について」)』は、ローマの医師ディオスコリデスが書いた、薬草についての本です。1世紀から1600年頃まで、西洋で最も重要な薬物学の本でした。息が長いなー
この『薬物誌(マテリア・メディカ)』はたくさん写本がつくられたんですが、初期の写本で特に有名なのが「Vienna Dioscurides(ウィーン写本)」とよばれる豪華な本で、美しい植物の図版で知られています。
ウィーン写本の図版。素敵です。
アロマテラピー検定の教科書では、「ウィーン写本は、512年にビザンツ帝国の皇女に献上された」となっているんですが、これが・・・間違ってますね・・・
ウィーン写本は、515年ごろに西ローマ帝国のオリブリオス帝(Anicius Olybrius)の娘アニキア・ユリアナ(Anicia Juliana)に献上されました。ビザンツ帝国じゃなくて、西ローマ帝国皇帝の娘なんです。
オリブリオス帝は472年に亡くなっており、西ローマ帝国も480年には滅亡しているので、ウィーン写本ができたときには、アニキア・ユリアナは皇女ではありませんでした。元西ローマ帝国皇女というのが正確でしょうか。
ビザンツ帝国と西ローマ帝国をまちがえた理由は、たぶんこんなことだと思います。ウィーン写本は1560年代にイスタンブールで発見され、世に知られるようになりました。この情報を見て、「イスタンブールってことはビザンツ帝国でしょ?」と思った人が、確認せず「ビザンツ帝国皇女」と書いたんだと思います・・・
高貴な女性に本草書を捧げるというのもちょっと不思議ですが、当時身分の高い女性の間で、豪華な本草書を持つことが流行していたそうです。
アニキア・ユリアナは、コンスタンティのポリスに壮大な教会を建てたことでも有名です。また、君主でない最初の女性パトロンとして、芸術の歴史に名をのこしています。