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イギリスのハーバリスト ジョン・ジェラード

アロマテラピー検定1級に出てくるハーバリスト、ふたりのジョンのうち、本日はジョン・ジェラード(1545 - 1612)についてです。英語版Wikipedeiaをベースに色々参照。

ジョン・ジェラードは、イギリスの外科医・植物学者・ハーバリストです。1597年の著書、『the Herbal , or General Historie of Plants(本草あるいは一般の植物誌)』で知られています。

The Herbal or General History of Plants (Deluxe Clothbound Edition)

The Herbal or General History of Plants (Deluxe Clothbound Edition)

 

 この本は日本語に訳されておらず、関係書では『本草あるいは一般の植物誌』という題で知られています。でもこの題の和訳は微妙ですね~

書影を見ても分かるように、「or」以下はサブタイトルなので、和訳するなら『本草書~植物の話~』、『ハーブの本~植物概論~』という感じでしょうか。現在は『 Gerard 's Herbal (ジェラードの本草書)』というタイトルが通りがいいようです。Kindl版が格安で入手可能。

Gerard's Herbal

Gerard's Herbal

 

 閑話休題

ジェラードはナントウィッチ(Nantwich)で生まれ、この地で初等教育を受けました。教育を受けたのは、この時だけだったようです。その後17歳ごろに、床屋外科の徒弟となりました。当時、内科と外科は全く別の職種であり、刃物を使う外科治療は、剃刀を使う床屋の仕事でした。また、手を使う仕事は頭を使う仕事より卑しいされていたので、外科医の地位は内科よりかなり低かったようです。

彼は、世界を旅して植物について学んだと主張していますが、実際は限られた場所にしか行っていないようです。おそらく一度、北海を渡る貿易船に、外科船医として雇われたことがあるのでしょう。

エリザベス女王の側近ウィリアム・セシルは、領地のあちこちに巨額の費用をかけて植物園を作ったことで有名です。ジェラードは、1577年からセシルの庭園の責任者となり、1588年にはケンブリッジ大学に植物園の設立を提案しました。

ジェラードはすぐれた園芸技術者であり、本業の床屋外科、セシルの庭園の責任者のかたわら、ホルボーンの自宅近くに庭園を作りました。新世界への航海を行ったウォルター・ローリーやフランシス・ドレイクと契約して珍しい植物を集め、1,000種以上の植物を栽培、研究しました。

 1595年には、セシルの領地バーリー(Burghley)で責任者としての務めを果たしながらも、ホルボーン郊外の彼の庭園で多くの時間を過ごすようになっていました。

床屋外科としては、1595年には、床屋外科組合(the Barber-Surgeon's Company)の補佐人(the Court of Assistants)の一員になり、1597年には、床屋外科組合のjunior wardenに、1608年にはmasterに任命されました。

ジェラードという人物は実務家で、思想家ではありませんでした。そして、当時のロンドンのライム・ストリートにあった博物学者のコミュニティでは、アウトサイダー的存在だったようです。

 

ジェラードの一番の功績である本草書『the Herbal or General Historie of Plants』は、先行する植物書の成果を多く取り入れ、1597年に出版されました。

1480ページに及ぶ大著で、彼の庭園のから南アフリカまで、1,800種におよぶ植物が木版画の挿絵入りで掲載されました。この本の大部分は、1554年に出版されたドイツのレンベルト・ドドエンス本草書『Cruydeboeck(クリュードベック)』の英訳版に拠っています。ジェラードの本草書は、ハイクオリティな挿絵が豊富に収録されており、それらの絵はドドエンスをはじめとするヨーロッパ大陸の本からとられました。

ジェラードの死後20年たってから、修正と約1700ページの加筆が行われ、当時の植物学研究の決定版となりました。

取り入れられた本・図版は以下の通り。

  • レンベルト・ドドエンス(Rembert Dodoens)『Cruydeboeck(クリュードベック)』:1554年出版。ドイツの本草書で、715の図版が掲載されています。当時としては聖書についで多く翻訳された書物で、2世紀に渡って参考文献として利用されました。江戸時代には、野呂元丈らによって『阿蘭陀本草和解』などに抄訳されています。ドドエンスは、オーストリアのルドルフ2世の侍医、ライデン大学の医学教授。ジェラードの本草書は1633版・1636年版ともに、『Cruydeboeck(クリュードベック)』から、数百の木版画を流用しています。ドドエンスの挿絵の版木は、アントワープからロンドンに船で運ばれ、印刷に使われました。
  • ヤーコブ・テーオドル(Jacobus Theodorus)『Eicones plantarum seu stirpium』:1590年出版。ドイツ植物学の父のひとりと言われるヤーコブ・テーオドル、通称タベルナエモンタヌス(Tabernaemontanus)の著書。ジェラードの本草書1597年版は、この本から数百の木版画を模写して掲載しました。『Eicones plantarum seu stirpium』自体も、16世紀初頭のさまざまな植物の本の成果を再利用しており、ピエトロ・アンドレア・マッティオリ(Pietro Andrea Mattioli)、レンベルト・ドドエンス、カロルス・クルシウス(Carolus Clusiu)、マティアス・デ・ロベルなどの著書の内容や木版画が取り入れています。
  • マティアス・デ・ロベル(Mathias de l’Obe、ロベリウス)、Pierre Pena共著『Stirpium adversaria nova』:イギリスで1571年に出版。第1版では1,500種の植物が掲載され、268枚の木版画の挿絵が添えられました。1576年の改訂版『Plantarum seu stirpium historia』では、7つの言語の名称の索引がつけられ、クルシウス、ドドエンス、マッティオリの著書からの2,000以上の図版が取り入れられました。マティアス・デ・ロベルは、フランドルの医師・植物学者。オランダのオラニエ公ウィレム1世、イギリスのジェームズ1世の侍医でもありました。

『the Herbal or General Historie of Plants』は、これらの本にオリジナルの図版を追加して編集・出版されました。評価された一方、誤記が多いなどの批難をあびたため、トーマス・ジョンソン(Thomas Johnson)によって修正・加筆され、1633年に改訂版が出版されました。この改訂版は人気を博し、エビデンスとして19世紀のはじめまで利用されたそうです。

この本には、今日わたしたちが親しんでいるハーブもほとんど取り上げられています。薬剤師であったトーマス・ジョンソンの加筆・修正もあり、それぞれのハーブの薬効が的確に記述されています。

また、この本はとても文学的で、流れるような文体で、当時のイギリス人の生活と植物のかかわりが生き生きとえがかれています。

 

(2014.01/09 一部修正)